高江と日本と



沖縄県東村高江。日本政府(沖縄防衛局)が工事を再開してから3ヶ月と半分が過ぎた。

7月11日から始まった工事は同月の19日に全国から送られてきた500名の機動隊と共に加速度を増し、ドドドーっという勢いで、大分完成が近づいてきているようだ。
現在まで約1500台以上の砂利を積載した10トントラックが入っていったという。
残りは約500台と聞いた。
1日に50台以上入る日も多く、そのまま単純に計算すれば大体10日で全ての搬入が終わるということか?

今、高江で起きている米軍のオスプレイパッド建設に対する反対運動がどういう意味を持っているかの? 自分の視点で再考してみたいと思う。

まず、必ず知っておかないといけない事は沖縄の歴史である。

簡単にまとめてしまうと、
1609年に先ずは薩摩藩の島津に武力で抑えられ琉球王国が日本本土の江戸幕府の影響下に置かれる。その頃はまだ琉球藩としてその名を留めたが、明治に入ると廃藩置県により沖縄県になる。
そして、富国強兵し大日本帝国が戦禍を東アジア全体に広め、太平洋戦争まで至ると、その間に皇民化教育が敷かれ、琉球人は日本人へと変化し、沖縄県民が自ら率先して日本皇軍に奉仕していった。
それでも、戦時中に自国の軍隊からも虐待を受け、或いは沖縄戦では沖縄の住民が日本軍から殺されるという事態もあった。この日本国内で唯一起きた地上戦により、敵味方合わせ二十万余の戦死者をだした、それは県民の4分の1がなくなるという恐ろしいものだった。
戦後は日本全土が米軍の統治かに置かれるなか沖縄も例外ではなく、島の至るところが米軍基地となった。

1952年に日本はサンフランシスコ講和条約のよって独立国に戻った。
しかしここで、沖縄は除外されアメリカの統治下のままに残されてしまう。
"米軍による沖縄の軍事占領の継続を望む"という天皇の米国に対するメッセージがあった。
この1952年から1972年までの米軍統治によって沖縄は日本と違う社会を生きる事になる。
多くの沖縄県民が立ち上がった日本への復帰運動も、沖縄県民が望んだ平和憲法のもとの基地のない島は実現しなかった。


ここまで沖縄の歴史を見ると、日本とは違う歴史を歩んできた事が分かる。
沖縄は、琉球は、日本の盾となり、身代りになってきた事が分かる。

この高江の問題、辺野古そして全ての基地問題に於いて、日本本土に住む(沖縄は内地と呼ぶ)人達は先ず、必ずこの歴史の背景を理解しなければ、沖縄の問題は、沖縄県民による独立或いは高度の自治権を確立する以外に選択肢がないように思える。
それほどまでに沖縄の歴史はこの国で共有されていない。
歴史が共有されていないということは、問題の出発点というか根底のところで食い違いが生まれてしまう。

顕著な例が、沖縄県知事と日本政府の官房長官とのやり取りの中にあるように、普天間基地の移設問題のスタート地点だ。
沖縄県知事は米軍に強制接収されたと主張するなか、日本政府は市街地であるから危険という主張で歴史認識を掘り下げようとしない。
米軍から強制的に奪われた土地を危険だから帰そう、そして、さぁでは新しい土地を提供しなさい。と云われていると感じるのが沖縄の歴史を生きる人間たちの想いだ。
そして、沖縄は軍隊によって自分達は守られなかったという実体験を持っている、というよりも軍隊が居たからこそ、沖縄戦でこれほどの犠牲者だしたという苦しい記憶がある。

ここに於いても沖縄と本土の人の意識は食い違っている。

平和を創るという意味に於いて、沖縄は武力を抑止力としてさえも用いないという人の比率が本土よりも多い。

私はここに世界平和の希望を見いだす。

以上の意味合いからも高江そして、辺野古の米軍基地の反対運動は潰れてしまえば、この平和の意志の継承が失われてしまうというを強く危惧する。
どんな事でも失敗もあれば、成功もある。
しかし、この平和の意志と思想の継承の失敗、断絶だけは起きてはいけないと強く思う。

世界中で起きている平和のたたかいと意識を共有し、共に歩んでいきたいと、私自身、強く念ずる。


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